大田・絵堂の戦役(2)長登・大木津・川上幣振坂の奇襲

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諸隊本営地の大田金麗社
諸隊は伊佐から進軍し絵堂の夜戦に勝利したあと、翌日(八日)絵堂から転進し、本隊を大田の光明寺に置いていたが、そのうち藩の美祢宰判勘場を経て最終的には金麗社へと移した。
≪「大田に本営を下げる」山県は、いった。大田というのは絵堂から五キロ南へさがった大聚落である。


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絵堂-大田間の本街道は、東側が権現山、西側が秋吉台で、防御のための地形利用にはうってつけといっていい。山県は、各部隊を部署した。もっとも危険な川上口には精鋭の奇兵隊(200名)を置き、最前線の長登口には八幡隊(60名)と膺懲隊(40名)、その左方に南園隊(50名)、それよりさがった鳶ノ巣には御楯隊(50名)を置いたあたり、小規模ながら堅牢な縦深陣地であった。≫


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金麗社での諸隊軍議 
左端=品川弥二郎 右端=軍監:山県狂介(有朋)
山県狂介はこの時期、剃髪していたので「花燃ゆ」での髪形の考証は違和感がある?「花神」では山県狂介を西田敏行が演じたが、このときは剃髪であった。
 ≪山県狂介は、大田の天満宮(金麗社)の社殿を本営にしている。クヌギ峠の前線から伝令が駈けてきて、「援軍を頼みます」とやかましくいった。≫


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土地ケ垰(栃ケ垰)
司馬遼太郎「世に棲む日日」では栩峠(くぬぎとうげ)
≪粟屋帯刀の作戦は巧妙で、絵堂-大田間の本街道を大田にむかって部隊を猛進させ、途中のクヌギ(栩)峠という嶮岨な台上で諸隊の前線に接触し、双方あちこちの樹や岩のかげに身をひそめて猛烈な射撃戦をはじめた。ときに午前十時であった。≫


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長登附近の舟木街道分岐点
左道は台山の山口歩兵第四十二連隊大田陸軍演習場廠舎跡を経て赤間関街道と合流。
右道は小郡萩道路沿いの下ノ垰を越え絵堂へと通じている。
「長登の戦い」元治二年一月十日 午前十時から二時間位
絵堂から進軍してきた萩政府軍撰峰隊は、荻野隊を先陣に土地ケ垰(栩峠)の諸隊散兵線を抜き、刀祢まで進出した。しかし、一旦は後退して陣を立て直した諸隊の反撃に遭い、民家や毘沙門堂を燃やしたあと絵堂へと退却する。
≪大田から北へ、道路が二本出ている。大田を基点にすれば、V字形になっていた。V字の左側が絵堂-大田の本街道である。本街道といっても山路で、道幅は馬一頭がやっと通過できる程度だった。~本街道上では、激戦二時間ののち、この方面の粟屋軍を駆逐して絵堂にまで接近し、そこで追撃した。」≫

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長登戦況図


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大木津附近
長登方面の萩政府軍は陽動部隊であって、同日午後から力士隊と撰峰隊で編成された主力部隊は「世に棲む日日」でいうところのV字の右側の道路から大田川沿いを南下し、大木津から川上を経て諸隊本陣の金麗社を攻撃する作戦を立てた。
≪このV字の右側へ進出していた奇兵隊の参謀は勇猛できこえた三好軍太郎であり・・・・・V字の右端の端に、大木津(おおこつ)という難所がある。三好はここを最前線として兵を伏せておいたが、午前十一時ごろ、川むこうの藪に千人ほどの部隊が出現し、川を渉りはじめた。萩の上士で組織された選峰隊であった。三好はそれを十分にひきつけておいてから、射撃を命じた。≫


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大木津、二ノ小野附近
≪が、選峰隊は兵力の大きさを恃んでどんどん渉り、その渡渉を対岸の部隊が射撃をもってたすけ、それを繰りかえすうち、奇兵隊はささえきれなくなった。「地雷火の場所まで敵を誘導しよう」と、三好は、かねて謀(しめ)したとおり、予定の退却をはじめた。道は一筋であった。三好らは逃げた。選鋒隊は勝ちに乗って追い、やがて地雷火の埋設点まできたとき、先頭のものがそれを踏んだ。つぎつぎに踏んだが、地雷火は発火しなかった。理由は、粗製のために導火線が切れてしまっていたのであった。≫

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川上口の分岐 蔵ノ上山(355m)と権現山(543.0m)
大木津より南下する間道はここで分岐し、画像左は糸谷を経て長登へ通じ、画像右は殿ケ浴から川上を経て大田へと通じている。


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殿ケ浴
≪「殿ケ浴」と、土地とよばれている地形の錯綜した場所まできたとき、三好は退却軍を整理し、あちこちに兵を撒き、岩や樹を盾にして応戦の態勢をとった。たちまち激烈な戦闘がおこった。奇兵隊にすれば、この殿ケ浴を突破されれば、大田本営は壊滅するとおもった。事実そうであった。三好は岩頭に体を露出し、絶えず声をあげて士卒を鼓舞した。≫


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川上橋より見る殿ケ浴方面と権現山
≪山県は、慎重居士である彼を失った。この男が、のちに元帥をして明治陸軍の法王のようになったその軍歴のうち、唯一の軍人らしい指揮行動の履歴が、このときから始まるのである。「殿ケ浴があぶない」と、かれは槍をとって馬にのり、すぐに駆け出した。単騎であった。おどろいたのは、山県のそばにいた予備隊の四十人であった。みな立ちあがった。この四十人の隊長を、湯浅祥之助という勇敢軽捷な男がつとめていた。湯浅は奇声をあげて山県のあとにつづいた。≫

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山県有朋(狂介)


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金麗社付近より見る中山


≪このとき、山県狂介がとった経路は、戦術上、これ以上の方法はあるまいとおもわれるほどにすぐれたものであったい。かれはV字の中央の藪山(通称小中山)の山中を突っ切って、敵の側面に出ようとした。道は笹で覆われた木樵みちであったが、この隊のたれもが、この小山をどのようにして横切ったか、記憶してないほどに一同夢中であった。≫


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幣振坂の奇襲
≪やがて稜線を越え、敵の選鋒隊を見おろしたとき山県はすぐ射撃を命じ、「われら諸隊が、生きるも死ぬもこの一戦にあるのだ。負ければ、刑死ぞ。刑死がいやなら、ここで死ね」と山県が励ますうち、湯浅祥之助は白兵突撃を決意した。湯浅は剣をあげ、「念仏せよ、念仏せよ」とどなり、みずから南無阿弥陀仏と連呼しながら駈けおりた。銃弾が前後左右の山肌に突きささった。隊士はことごとく念仏しなら駈けおり、川を飛びこえ、道路上に縦隊になって戦闘中の選鋒隊の脇腹に突っ込んだ。一方、三好軍太郎もこの機を逸せず、白刃をあげて突撃を命じた。≫


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「川上邀撃戦」 萩政府軍撰峰隊隊士の墓、後方は幣振坂
≪さらに山県は手もとの十五人ばかりをひきぬいて選峰隊にもっとも近い竹藪に中に入りこみ、ここで狙撃をさせたが、敵に崩れのきざしを見るや、突撃に移った。諸隊のなかで山県だけが騎馬であった。かれは馬上から声を嗄らし、「死ねや、死ねや」と叫び、敵が崩れるとさらに、「追え、追え」と、長槍を采のかわりにふりまわして叱咤した。白兵戦では、奇兵隊が上士団である選峰隊を圧倒した。選峰隊はついに崩れ、大木津へのがれ、そこでもささえきれず、絵堂まで逃げた。山県は深追いしなかった。深追いできるだけの兵力がなかった。≫


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萩政府軍撰峰隊は新井手原まで進出したがここで退却した
≪この慶応元年正月十日の決戦は、圧倒的に諸隊の勝利に終わった。が、藩政府軍は大軍であり、殲滅的な打撃をうけたわけではなかったから、このあと重厚な包囲態勢に移った。大田の諸隊は孤立無援といってよく、このままでは疲労と消耗で自滅せざるをえないであろう。≫

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幣振坂戦況図


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大田・絵堂の戦役戦跡図

「大田・絵堂の戦役(1)」

「大田・絵堂の戦役(3)」

「大田・絵堂の戦役(4)」




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